昨日の投稿でもちらりと触れましたけれど、ぼくの『超えてみようよ!境界線』というタイトルの本が年明け1月に、かもがわ書店から出ます。ケニア、フィリピン、カンボジア、ルワンダ、障害という章立てで、境界線を超えた(越境した)それぞれの先で見たこと、考えたことをつづっています。
先日、そのあとがきを書いたのですけれど、最初の原稿はスペースが足りないということで、ボツになりました。すでに書き直したものを編集者さんにはわたしています。
で、そのボツ原稿、ここで公開しちゃいます。
〝密航〟のすすめ(あとがきに代えて)
2020年、新型コロナウイルス禍に世界は覆われた。国境は閉まり、人の移動も止まった。越境ひっきりなしだったぼくも、停滞している。こんな状況がいつまで続くのか、これを書いている段階で、予想もつかない。それでも、確かなことがひとつある。やがて人の移動は再開する。閉じていた国境も開く。歴史をたどれば、それはわかる。過去のペストやコレラ、インフルエンザの感染爆発(パンデミック)は、人の越境を止めることはできなかった。歴史は繰り返す。
もちろん人の移動を制限する方法は、過去と比べて21世紀の今、発達し続けている。街々のあちらこちらでぼくたちを見張る、不気味な半球型をした防犯カメラたち。ぼくたち自身にはなんの自覚もないまま、顔認証というテクノロジーが精度を増してぼくたちをデータ化する。安全や治安という看板の裏には、監視や管理が大書されているのにみんな気がついてるけれど、あっという間に慣れていく。監視の向こう側で、何が良いことで悪いことかを決めるのはぼくたち自身じゃないことを、僕たちは忘れがちだ。
この風潮については、ぼくはかなり悲観的だ。きっとこれから国家による監視はますます力を増していくんじゃないだろうか。だって、「悪いことをしなければ、自分は関係ない」という思いは、障害を持つ前には障害のことに関心が向かないことと、どこか似ている。そして障害者はいつだって少数者だったのと同じように、管理と軋轢を生む価値観や生き方を選ぶ人も、いつだって少数派なんだ。
越境者にはなかなかしんどい世の中だ。けれど、越境が人を引きつける魅了は、そんなときより一層輝きを増すのだとも、ぼくは思う。その点に関しては、ぼくはとても楽観的だ。だって、開きっぱなしのドアよりも、閉ざされたドアの向こうに何があるかのほうが気になるのがヒトってもんじゃないか。好奇心という根源的な欲求にまで蓋をするのは、どうしたって無理だ。ルールは、そのルールを最初に破る人の冒険心を満たすためにある。
〝ヒト〟とは、常に冒険者を抱える集団のことだった。そうでなければ〝ヒト〟がアフリカを出て、ベーリング海峡を越え、太平洋の島々にまでその活動の範囲を広げることはなかった。
地球上から辺境の地が消え去った時代を迎え、おそらく人類史の中での社会的冒険の役割はこれから縮小していくか、あるいはその形態を大きく変えていくだろう。でも、個人的冒険が滅びることはないはずだ。もしあなたが少しでも越境の夢をみるとすれば、それはヒトとして当たり前のことなんだ。
一方で、非冒険者にとっても越境は無縁ではない。なぜなら、越境者は境界線の向こうからもこちらにやってくるから。境界を超える必要がなくとも、越境者とつきあう必要は誰にもある。世界は開いているから、仕方がない。
だから、傷つかない程度の術を持たなければならない。理想的なのは、格差や不平等に対する感受性を保ちつつ、自分の生きやすさを維持する術を持つことだろう。生きやすさとは、物理的にも精神的にも無理しすぎないことだ。自分の生きやすさも、常に変化している。たとえば、年齢や経験によって。家族を持つこと、子どもを持つことでも変わるだろう。現在の日本のように、社会構造そのものが変化していくこともある。そういう変化を認めつつ、違うシステムに関わり続ける持続力を持てるように自分を鍛えるしか、境界とつきあう術はない。
必ずしも、わかりあう必要はないのだと思う。そのときは、境界を上手に作ろう。そしてその境界が消さ去ることもあるのを認めよう。
何かの差異があればそこに境界はいつでも生まれる。たとえば、〝私〟と〝あなた〟の間にも、さまざまな境界が築かれている。境界の両側に〝共通すること〟が見つかれば、いっとき境界が消え去る。そして、その〝共通すること〟の外側に新たな境界ができる。〝私〟と〝あなた〟は〝私たち〟となり、〝私たち〟とはまた違う〝あなたたち〟や〝あの人たち〟が立ち上がる。だから境界は無数に存在する。
どの境界も、存在理由はそれぞれだ。人は、そのときそのときで、自分の都合に合わせてその境界を使い分けているに過ぎない。ひとつひとつの境界の強弱濃淡を決めているのは、その境界を必要とする人たちの価値観や利便性だ。そしてその価値観や利便性によって、境界は都合よく現れたり消えたりしている。それはけして不道徳でも、責められることでもない。境界はあくまで生き易く使えばいいのだとぼくは思うようになった。もちろん、その境界が他者に対しての侮蔑や否定や、特権の維持のためでない限り。そして、国境も多くの揺れ動く境界のなかのひとつに過ぎないと考えるようになった。
揺れ動く境界は操作できないことがある。自分で操作できないって、なんか素敵じゃないかな。そして、それも「世界は開いているから仕方がない」のだとぼくは思う。
そして、このコロナ禍だ。
境界が閉じられているなら、〝密航〟しよう。冒険者の先輩たちが、そうしてきたように。計画は練ったほうがいい。でも、出たとこ勝負は避けられない。健闘を祈る。
この本が、あなたが次の一歩を踏み出すその背中を、そっと押すことになればとっても嬉しいです。
それじゃ、また。元気で、いってらっしゃい。
新刊につきましては、また改めてお知らせします。ひとりでも多くの方の手に届けばいいなぁと思っております。


















村山さんおめでとうございます。1月に新刊でろんですね。没になった後書きとても良かった。もったいない。でもきっと同じくらい素敵な後書きが書かれたんだと思います。私はちょうど今、楠山忠之著「燃える雨」を読み終えたところでした。1970年〜1980年にかけてのCambodia女性の記憶を辿る物語。その後しばらく全く開いていなかったFACEBOOKを開いたら村山さんのこのページに会いました。ありがとう。ニコ☺️
ニコさん
あらー、コメントいただいていたのに気がつくのが遅れて、新しい年になっちゃってました。
はい、新刊もうすぐ出ます。『越えてみようよ!境界線』というタイトルです。内容は、昨年送りました自費出版本と重なっています。
あれよりも、ずっと読みやすくなっているはずですが。それに表紙がとってもいいんです。よろしければ、ぜひ手にとってみてくださいね。出版数が多くない(1500部のみ)ので、本屋さんすべてに並ぶってわけじゃないと思います。それに、ちょっとお高い。ごめんなさい。
「燃える雨」は、ぼくも読みました。オシッコに胡椒を入れて飲むなんて記述がありませんでしたか?
その後も、まだブログ、ガンバって書き続けています。よろしければ、ぜひ読んでくださいませ。
ではでは、また。
村山哲也